
4日に1度の「お当番」のときは7時30分出社
冬は月を見ながら6時30分に家をでていた
高田:朝はとても早かったそうですね。
市川:通常は8時出社、お当番のときは7時30分出社でした。普通の社員は9時出社でしたけどね。
高田:いまでこそいろんな出来事が笑い話かもしれませんが、当時とても辛かったことはどういうことですか?
市川:お当番ですね。4日に1度まわってくるお当番は朝7時30分出社でしたので、やはり大変でした。ある日ものすごい体調が悪く、出社できる状態ではなかったんです。でも、朝のお当番は誰にも変わってもらえないので、とっても辛かったんですが、電車を何度も降りて休みながら、電車内で倒れそうになりながら、這うように出社しました。
高田:フォローする方はいなかったんですか?
市川:そうなんです。体調が悪くても、笑顔で「おはようございます!」と言わなくてはいけなかった・・・。役員さんに、「市川さん、今日も元気だね!」と声をかけられた瞬間は、もう倒れそうになりましたね。(笑)
高田:たまりませんね。(笑)
市川:その日はどうしても一人で帰ることができず、それこそ役員さんのお車で送っていただきました。社内には、びっしりとビニールを張って。(笑) 絶対汚しちゃだめですよ、なんて運転手さんに何度も言われながら。
高田:それは大変でしたね。一人体制だと何かあった際に助けてもらえないので、大変ですね。
市川:そうですね。とにかく朝が早かったのが辛かったです。お当番の時は6:30に家を出ていました。冬は月を見て出社していましたから。(笑)
でも、あとはそれ程辛いとは思いませんでしたね。ただし、当時ストレスがたまっていたのか、ものすごいニキビができてしまったんです。風邪を引いて、オフィスの1階にあるクリニックに行った際に、「あなたは風邪よりそのニキビを直しなさい!」といわれたほどなんです。
高田:気を遣いながらの仕事ですから、プレッシャーもあり、知らないうちにストレスを感じていたのでしょうね。
役員さんは扱いにくい方とかいませんでしたか?
市川:無理じいをさせられたり、理不尽なことはありませんでしたね。ある意味恵まれていました。
当時を振り返って4年半はどうだったかな?と考えると、楽しかったです。もちろん辛いこともいろいろありましたけど、いろんな経験をさせてもらえたことが、その後のキャリアにとてもプラスになりました。
役員室にあった雑誌がキャリアチェンジをするきっかけ
「あ、これだ!」と、ビビッときた瞬間
高田:退職されるきっかけは何だったんですか?
市川:役員室には新聞の他、あらゆる雑誌が置かれていました。その中で、たまたま「日経ウーマン」の雑誌を見たんです。
高田:日経ウーマンまで置いてあったんですか?
市川:はい、経済紙はじめ、ありとあらゆる雑誌が置いてありました。その中で、これからの資格特集が掲載されていて、「カラーコーディネーター」があったんです。それを見た瞬間に、「あー、これだ!」とすぐに思いました。ホントにビビっときたんです!(笑)
高田:ものすごい出合いでしたね。
市川:それで、仕事を続けながら、すぐに学校に通いだしたんです。20年前だったので学校も少なく、当時2つしかなく、そのうちの1つに通いました。
高田:いまでこそ、カラーコーディネーターの学校はたくさんありますが、当時は2つだけだんですね。
市川:学校は、初回は10数名いますが、プロコースになると、6名とか3名ぐらいに減ってしまいます。受講料も結構高くて、合計で60万円ぐらいかかりましたね。
高田:当時にしては、結構高いですね。
市川:学校には約1年通いましたが、半年ほど通った際に会社を退職しました。
高田:楽しくなったんですね。
市川:もう楽しくて、楽しくてのめりこんだんですよ。はまると他のものが見えなくなるタイプというか、猪突猛進型なんです。(笑) 「将来はこれをやっていこう、絶対何とかなるさ!」と信じていました。でも、考えが甘かった。あるとき、ふっと気がついたときは大変でしたね。突然やっていけるわけもなく・・。
高田:でも、20年も前からニーズがあったんですね。
市川:はい、その頃でも結構ありましたよ。先駆者の方は、既に10年ぐらいのご経験がありましたし。
高田:それは知りませんでした。
市川:一時はものすごいブームでしたけど、今はかなり落ち着きましたね。
高田:でも、役員室で手に取った雑誌がその後の人生を左右することになるとは夢にも思わなかったでしょうね?
市川:たまたまカラーコーディネーターでしたけど、何か違うことがやりたいということが、頭のどこかにあったんでしょうね。
高田:そのタイミングがあったということですね。
市川:そうですね。まず、人が好きだったので、秘書の仕事はとても好きでした。でも、限られた中でのお付き合いでしたので、もっと不特定多数の方と接したいという欲求がありました。あと絵を見たりするのが大好きでしたので、何かアート的なものに関わりたいという気持ちもあったのかもしれません。それで、26歳で退職しました。
